神谷知子は20年前、28才のとき結婚した。そのときのことを思い出すと今でも胸が締め付けられた。
T大学大学院時代に同期だった男性と恋愛し結婚する。同じ地球科学を専攻し自然と親しくなったのだ。世間に無知な娘は男女の機微についても、うぶな考えかたよりできなかった。簡単に言えば子供だった。知識は豊富でも実生活には役に立たず、頭でっかちの2人は次第につまらないことで非難し合うようになり、結婚生活は2年で破綻した。
大学に残り助手をしていた神谷に心機一転、海外行きを勧めたのは教授の古田島だった。WMO(世界気象機関)に職を得て、娘の麗を連れジュネーブに渡る。32才のときである。
WMOで白石と出会った。彼は海洋研究開発機構からの出向、すでにジュネーブ滞在が1年を越えていた。ワイルドで荒っぽい白石には魅力を感じなかった。神谷自身、もう恋愛はしないと心にカギを掛けていた。
人間の感情ほど不確かなものはない。川の水のようにどこへでも流れていく。
神谷は半年後、白石に特別の感情を抱いている自分を発見して愕然とする。あんなに固くカギを掛けたのに、もう恋などしないと自分に誓ったのに、白石のことを考えると体の芯が疼き、動悸が高鳴った。感情の高ぶりのなかで、同じ失敗を繰り返すのかと自分を責めたのだった。
狂おしい感情に悩み支配され、明日のことも考えられないほどに愛することの奥深さに翻弄された。さらに半年後、白石が帰国したとき、神谷はやっと平静を取り戻す。自分を冷静に見ることができたのだ。白石はすでに妻子がいた。誰かを悲しませ、犠牲の上に自分の幸せを築こうとは思わなかった。
白石は豪放な表情の裏に繊細な感覚を隠し持っていた。自分の特別な想いも気づいていたに相違ない。ただ二人とも口にしなかっただけのこと。
あれから16年の歳月は、愛するという感情を同じ専門分野を研究するという同志的感情に変化させたのだと今は考えている。これで良かったのだと後悔は感じなかった。
神谷には娘の麗がいた。
代償が有ろうと無かろうと、犠牲になろうと、神谷は自分の深い心の泉から湧き出る言葉に真実の希望を見い出すことができた。
<麗。あなたはわたしの光。空よりも高く海よりも深い愛の証>
わたしが今まで生きてくることができたのも麗に支えられてきたからだと思った。わたしが麗を育ててきたのではない。麗がわたしに生きる意味と糧を与えてくれたのだ。
麗は幼いときから聡明な子だった。知能が高いというだけでなく、理性のなかにひらめきと発想の豊かさを併せ持っていた。この子は特別な子だと思わずにいられない。美しく成長した17才の今。艶のある黒髪とスラリと伸びた肢体に女らしい優しさが加わり、ただ強く抱きしめたいと思うほど愛しさを感じた。それは母としての最高の幸せでもあった。
<麗、素敵な未来でありますように。望んだことが実現できる未来でありますように>
しかし神谷には母としてただ一つ心配なことがあった。
素晴らしい才能と美貌と清らかな心を持つ娘に、なぜ一つだけ大事なものを与えてくれなかったのでしょうか?神よ!あなたは本当に慈悲をお持ちなのですか?と何度問うたことでしょう。恨めしく思ったことでしょう。
宝石を散りばめたような青や赤や白い星々も、ロマンティックな三日月も、眩しい太陽も、白い雲も、緑の森も、荒々しい海の波も、煌めくせせらぎも、カラフルな鳥たちも、大地の砂も、そして母の顔も見ることができないなんて。
麗は生れたときから盲目の暗闇のなかで生きてきたのです。
暗闇に差し込む一筋の灯りも、朝露の一粒の輝きも、ダイヤのように美しい自分の一粒の涙さえ見ることができなかったのです。それがどんなに口惜しいことでありましたでしょう。
白石が出た。
「やあ〜、忙しそうだな」
「こんな電話もしているヒマは本当はないの」
「そうだろうな。来週の週末あたりになれば落ち着くんじゃないかと思ってさ。忙しい課長さんに一流レストランにリザーブのお誘いをしようかと思って」
「あら、嬉しいこと」
「もちろん、麗ちゃんも一緒に。なんでもリクエストしていいぜ。札束を用意していくからさ」
「フフッ、お金持ちなのね。少し寂しいんでしょ?」
「見抜かれているか。何か手伝うことがあったら、なんでも言ってくれ。6号のことさ」
去年、控え目な家庭夫人だった奥様が亡くなった。急性白血病で入院からあっという間の出来事だった。神谷にはもう昔のようなエネルギーは無かった。白石とは何でも話せる友人でいたいと思うのだった。
COMMENT
そんなストーリーを考えるわたしはハートレスな性格なのかもしれません。
でも清純な心は泥から咲く白蓮のように、試練と苦しみのなかから生まれてくるものと思います。
わたしは汚れることを恐れません。正義を貫くことを恐れません。
自分の愛娘が盲目というのも切ないですが、何より
娘が自分の顔を知らないということが切ないです…


詩とロックが好きな25才
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